歴史

ウノポートインができるまで

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ウノポートインが入っている建物は1983年(昭和58年)に旅館として建てられたものです。その時代の主な利用者は直島北部にある三菱マテリアルと玉野市の三井造船に通うために長期滞在した (その多くは四国や九州からの)期間労働者の方々でした。

 

Mitsui Shipyard

Mitsui Shipbuilding Co.

 

この建物はいわゆる日本の昭和後期80年代の典型的な作りで、日本人サイズの低いドア、4畳半プラスを基本とした一部屋の大きさ、宿泊者全員が使用する銭湯のミニチュア版のような共同風呂が一つだけ、というものでした。

二階部分は旅館を経営していた家族の住居として利用され、二階から降りる階段の出口は食堂だけに通じていて、食堂内では社員寮のように朝晩の食事が提供されていたようです。

 

 

 

Mitsubishi Material

Mitsubishi Material on Naoshima

第1時大戦頃から始まり第2次大戦後の高度経済成長時代には多くの重金属産業系の工場が瀬戸内海の島々に建てられていたので、本土の港にあるこの小規模旅館は多くの独身/期間労働者に必要とされていたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

一方で宇野港は1980年代前半まで四国と本州を結ぶ拠点の港として、国鉄(現JR)連絡船で客車や貨物列車が瀬戸内海を渡り四国へと運ばれていました。他にも多数あったフェリー会社からは昼夜を問わずひっきりなしにフェリーが発着し、人、車、物を24時間運んでいました。特に70年代〜80年代は大変な賑わいのあった港でした。

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80’s Uno Port

Uno Station site

JR Uno Station Site

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Yes, JR train-ferry

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70’s Times Square of Uno

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40 years later

 

 

ところが、日本経済がバブル最盛期であった1988年、宇野港とは別の街に本州と四国を結ぶ初めての橋として「瀬戸大橋」が完成しました。この橋は、それまでの宇野ー高松の本四海路にとって代わる主要流通ルートとしての意味がありました。またその必要性は1955年に起こった紫雲丸事件の悲劇にも起因しているということでした。

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瀬戸大橋開通

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瀬戸大橋ー世界で一番長い吊り橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


その結果、全国的に知られた宇高連絡船は廃止されました。本州と四国を結ぶ主要なJR線は瀬戸大橋側へ湾曲し(それと共にかつて閑散としていた茶屋町駅は忙しい乗換駅となった)、宇野駅は廃止に...なりかけましたが、瀬戸大橋に問題が事故が起こった場合のバックアップとして、かろうじて存続する事になりました。

この流れを受けて、それまで大量の物流のために必要だった宇野駅構内の列車場や貯蓄場用の広大な土地が不要となり、国鉄はその土地を玉野市に売却しました。そして市は娯楽用のテーマ施設として利用しようと提案しますー80年代バブル期のあの時代をご存知な方には容易に想像できるでしょうー市は『スペイン村』なる巨大娯楽施設の建設を検討し始めます。(その名残が現在の宇野駅や港近隣の建物の”オレンジの屋根”に見て取れます)

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『スペイン村構想』パンフレット

 

行政、参画企業、そして街の市民は大きな期待を寄せ真剣にこの計画を進めようとしますが、莫大な予算と日数を費やした後、結局この計画は実現せずに終わってしまいました。関西地方の他市が先に『スペイン村』パークを作ってしまったのです。

 

Uno Port 2009

Uno Port 2009

 

そうして旧宇野駅の広大な土地は過去数十年間に渡り、ほとんど触られないまま放置されました。その間、玉野市の経済の大黒柱である三井造船の営業成績は急速に降下します。その余波で約2万人の市民が土地を離れることになりました。街はさらにどんどん活気を失っていき、いつのまにか、残っている住人の多くは高齢者と少しの子どもだけ、というような状態になりました。
直島アートサイトを運営するベネッセコーポレーションは岡山県に本社を置き、元々は『福武書店』として教育関連の図書を出版する企業として成長していました。
80年台後半、彼らは最初にモンゴル式テントを直島に持ち込み、キャンプ場事業を展開しようとしました(現在「つつじ荘」にある宿泊施設 – ゲルがその名残です) 。
その後、1992年に安藤忠雄設計のもと、ベネッセハウスミュージアム/ホテルを建設します。続いて1998年にアートハウスプロジェクト、2004年に地中美術館、2009年にI♡湯、2010年に李禹煥美術館を建てました。そして他の島々へ事業を拡張します。2008年、古くなった精錬所を犬島美術館として、2010年には豊島美術館をオープンさせました。

 

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Setouchi Triennale 2010

2000年にはConde Nast社トラベラーズ誌で直島が「死ぬまでに訪れるべき世界の7つの場所」の一つとして紹介されました。安藤忠雄氏やサーナ、千住博氏、草間弥生氏など世界的に認められた建築家・アーティストの作品を揃え海外のアート/デザイナー/建築関係者に一目置かれるようになった後も、目に付く宣伝活動をしないにもかかわらず、海外からの訪問者が増えていきました。

(一方で2003年の007シリーズ小説『赤い刺青の男』の中でで直島がG8サミットの会場として設定され、そこで出来たのが直島にある『007赤い刺青の男記念館』)

ウノポートインをプロデュースするウノスロープハウスが自身の「家プロジェクト」的に空家になっていた実家をB&Bとして再生したのが2009年。まだ日本でネット予約が普及していない当時、海外からの訪問者が直島近辺での宿泊場所の確保に困っていた状況下でした。

2010年に第一回目の瀬戸内国際芸術祭が開催されました。それまでとは打って変わってあらゆるメディアで直島の宣伝が始ります。そして香川県を中心とした瀬戸内国際芸術祭であるため高松港を主要港としてキャンペーン活動が展開されたのです。

ただ、それまでに多くの人が宇野港を直島、豊島への最も近い港として注目していたので、徐々に少なからずの芸術家が宇野周辺に集まり始めていました。2011年の東日本大震災後には、福島や関東から幼い子どもを持つ多くの家族も宇野に移住してきて、宇野の街はどんどん変わってきました。

ベネッセは謳います。「アートを持ってその土地に残るものを見直そう」「過度な工業振興のためにないがしろにされ続けてきた美しい自然やそこに住む人々に永続可能なライフを」と。

「うつみ旅館」は2011年に売却され、町おこしNPOが運営する移住者促進のための若い旅行者中心のゲストハウスとして利用された後、2016年3月、ウノポートインとしてリニューアル・スタートする事になりました。

 

 

 

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Mr. Sato – the contractor

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Mr. Tanaka – the plumber

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Mr. Ito – craftsperson

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Mr. Saji – craftsperson

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Mr. Shimizu – craftsperson

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Mr. Yokoyama – the painter

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lots of plumbing

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in progress

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